彼女の福音
捌 ― 休日、口実、真実 ―
私だって、朝は好きじゃない。
まだ肌寒い春の日。布団の中の温もりは捨てがたいものがある。そしてパジャマ越しに感じられる、心地よい感触と温かさ。愛されている実感。
「んん……」
できるだけ起こさないようにもぞもぞと動いたのだが、目を覚ましてしまっただろうか。
「ん……ともよ……」
「もう少し寝ていてくれ。朝ご飯ができたら起こすからな」
「ん……」
シャワーを浴びた後、私は何気なくカレンダーを見てみた。そうだ、今日は杏と一緒に出かける日だった。
「そう言えば長い間朋也とお出かけなんてやっていないな……ふふっ」
何だかよくわからないが、今日はいい日になりそうだ。
服装を選んでみる。本当は朋也が買ってくれた白いワンピースを着てみたいが、まだ少し寒いので我慢する。いろいろと考えた挙句、青と白のシャツに、お気に入りの白いスカートにした。今日ぐらいはヘアバンドも琥珀にしてみようかな……
朋也はまあ、何を着ても似合うが、ここで手を抜くのはいけない。そう、妻たるもの、夫に一番良く似合う服装を知っていなければ勤まらないのだ。
「朋也、今日はこんな服にしてみたが、どうだろうか」
「これは……なんだ、なんてこった!智代、このコーディネートは最高だ!」
「そ……そうか?」
「ああ、プロですらここまではいかない。お前、ファッション事務所に行っても務まるんじゃないか?」
「ううう、悔しいけど岡崎さん最高ですっ」
「冗談を言うな。こんなことをできるのは、私が朋也の妻だからだ。他の男にはやれても絶対にしてやらない」
「うぉおおおおお!智代さいっこう!いやっほおおおおおい!」
「愛だな……」
はっ。
しまった、私としたことが。これでは風子ちゃんにヒトデではないか。い、いやでも夫に対してそういう想像を働かせるのは、許されることなのではないか?読者のみなさん、どう思う?
というわけで、今日は白いシャツの上にオリーブグリーンの襟なしポロシャツ、そして白めのジーンズを選んだ。
さて、あとは朝ご飯だな。
「で、今日はどこにいくんだろうな」
朋也が食後のお茶を飲みながら聞いてきた。ちなみに、選んだ服をいざ着せてみると、他の女が寄ってこないかどうか心配になるほど似合っていた。
「でも、いやっほおおい、とか智代さいっこう、はなかったんだ……はぁ」
「は?」
「いや、こっちの話だ。今日はたしか杏と一緒にいろんな所を歩きまわる予定だ」
「何だか、俺、荷物運びとして呼ばれそうだな……」
「それはない。今日は朋也が主役だからな。朋也の息抜きのために行くんだ。荷物なら、私が持つ」
「そんなことはできない。お前に持たせるくらいなら、俺が持つよ」
「いやしかし……」
「たまには夫らしいところを見せさせてくれ。この頃、智代には甘えてばかりだからな」
そ、そんな笑顔で私を見るな。恥ずかしいじゃないか。
「あとさ」
「な、何だ」
「ヘアバンド、似合ってるからな」
やっぱり朋也はずるいと実感した。
「まあ実際荷物運びは手配したんだけど」
「って、やっぱり僕っすかぁああああ!」
杏がすでにカバンを持たせた春原を指さした。
「何だかひねりがないな。毎回毎回春原だし」
「岡崎っ!やっぱりお前は僕の親友だよ!」
「次は春原に逆立ちさせて登場させてくれ」
「あんたさらっとひどいこと言わないでよっ!」
「朋也も杏も、それぐらいにしておいたらどうだ」
見かねて、私は一言言った。
「ども゛よぢゃん……お゛んな゛のごがどう゛がうだがっでごめんよ……う゛う゛う゛う゛」
「それに春原をいじめたら、いいことなんてないからな」
「あああ、智代ちゃんはなんて優しいんだ」
「動物愛護団体に何か言われたら、厄介だぞ?」
ん?どうした?
何でみんなそんな目で私を見るんだ?
「どうかしたのか?」
「いや、智代あんたが一番ひどいって……」
「どうしてだ?天然記念動物をいじめたら、そうなるんじゃないのか」
「僕、人間ですからっ!動物じゃないですから!」
「いや、そう見えるんだが実は人語を喋れる中国の山奥に住む猿の亜種で、驚異的な回復能力を持つ貴重な生き物だと朋也が言っていたが……あ」
杏が朋也を裏路地に引っ張って行った。何やらひそひそが聞こえた後、鈍い「どごっ!」という音がした。しばらくして頭に本を刺したままの朋也がすごすごとやってきた。今日はどうも電話帳らしい。
「すまん智代、あれは冗談だったんだ」
「そうだったのか。では春原がトカゲから進化したというのも」
「それも冗談」
「春原は真空状態でも三日間は光合成で生きていけるというのも」
「言ったっけそんなの」
「春原にはアトランティスの財宝のありかを知るための秘密が隠されているというのはどうだ」
「いや普通冗談だと気づこうねともぴょん」
「つーかあんた自分の妻に何失礼なこと吹き込んでるんですかっ!」
くわっとなる春原を、杏が引っ張った。
「ほら、あんたもぐだぐだ言ってないで、行くわよ」
振り返って笑って見せた。
「今日はもう、とっても忙しいんだからね!」
四人で歩き始めてから、急に朋也が「むぅ」と言った。
「どうしたんだ?」
「なぁ智代……今さ、変なんだけどさ」
「うん」
「今、俺たちどういう風に歩いてる?」
私と朋也が横に並んで、杏と春原が目の前で並んでいる。
「でさ、ちょっと思ったんだけどさ」
急に私の耳に顔を寄せた。
「あの二人、仲、よさげだよな」
何を言ってるんだ、お前は。とは言えなかった。私にも、この頃引っかかる節はあった。
「まさかな……」
「まさか……」
「でも、確かめてみるか?」
「どうやって?」
朋也がにやりと笑う。そして二人に歩み寄る。
「なあ、せっかくだからみんなで写真撮らないか?」
「え?あ、いいね」
「あたし賛成」
「でもいいのかな?僕みたいな美男子が美女とその他二名と映っていたら、岡崎とかは霞んじゃうんじゃない?」
「ほう、春原、一応聞くがまさかその他二名に智代が加わってるわけじゃないだろうな」
「まっさかぁ!その他二名といったら……」
後ろで握り拳を作っている憤怒の化身のごとき男と
隣で氷のような笑みとともに辞書を五冊も取り出している女。
春原、お前には自己保存の本能がないのだな……
「人の妻に変な色目使ってんじゃねええええ!」
ずびしゃ
「その他二名で悪かったわねっ!こんのドヘタレがぁあああっ!!」
ずっごーん
「あ、朋也、服が汚れてしまうぞ。ほら、拭かなければ」
ずみょ
ん?何か踏みつけた気がするが……気のせいか?
「智代ちゃんがやっぱり一番ひどいっす……」
というわけで公園の前で、通りかかった人に朋也のデジカメで写真を撮ってもらった。
「じゃあ、皆さん寄って……はい、いいですよ」
私はちらりと杏に目をやった。うん、前を見てるからこちらは見えないはず。
だから、こういう記念写真は大事なものに見えたから、少しだけ、恥ずかしい本音も見せてみたい気がした。
どうせすぐみんなにわかっちゃうのに、やっぱりどきどきした。
「はいっ、チーズ!」
一瞬の閃光。切り取られた日常。
「どうもありがとうございました」
苦笑しながらその人は手を振った。
「それじゃ、皆さんお幸せに」
ふと見ると、私よりも杏の方が真っ赤になってた。
「あ」
しばらく四人で歩いていると、朋也が素っ頓狂な声を上げた。そして急いでズボンのポケットを探りだした。
「どうした岡崎」
「やべえ、さっきの店に財布置き忘れちまった。ちょっと待っててくれ」
朋也が走り出した。
「何だあれ?」
「しょうがないわね……」
杏達が肩をすくめる。でも、私には何かがおかしい気がした。
「すまないが、朋也だけじゃ心配だから私も行ってくる。すぐ戻る」
言うが早いか、私も駈け出した。二人が見えなくなってから、私は小さい路地裏に入って行った。
「どういうことだ、朋也?」
「やっぱ智代ならわかったか」
「当たり前だ。お前の財布はいつもシャツに隠れる右の尻ポケットに入っているし、さっき店を出るときに入れるのを確認している」
「智代にはかなわないな」
朋也が苦笑した。誉めてるんだろうか。
「それで?」
「まあまず写真を見てみよう」
いたずらっぽく笑いながら朋也はさっきのデジカメを取り出して、表示モードにした。
「やっぱりそういうことだったのか」
「まあな。どおれどれ」
「……」
「……」
「……何か恥ずかしいな」
「いいじゃないかっ!記念だから少しがんばったんだっ」
うん、しっかり撮れてた。私が朋也の腕に抱きついて肩に頭を預けているところが。
「ま、まあそれは別として、問題は春原と杏だな」
「うん」
「……なあ、ここのところ」
「うん……」
「……春原は俺の肩に腕を回すことに夢中っぽいけどさ。じゃあ、その腕に乗ってる手は誰のだ?」
「それは……杏の、以外に考えられないな」
「つまり、何だその、この写真を撮った時、俺の肩に腕を回してた春原を、杏が後ろから……」
「……」
「智代君、どう思う?」
「他の選択肢がなくなった場合、例えそれがどんなに信じがたいものでも残った選択肢が真実……だ」
「これはほっとけませんな」
「ほっと…いたほうがいいんじゃないか?」
「いや、智代は女の子だから知らないけどな、男にはこういう場合介入して助けてやる義務があるんだ」
「そ、そうなのか?」
「これは男の間では暗黙の了解で、破るとそいつは一生男として暮らしていけなくなるんだ。知らなかったのもまあ、無理はない。智代ほど女の子らしい女の子はいないからな」
「そ、そうなんだ。私は女の子だから、そんな大事なことを……」
「ああ、ほら春原だって俺達が付き合い始めた時にいろいろとやらかしてただろ?あれはあいつなりに男の義務を果たそうとしていただけなんだ」
「じゃ、じゃあ、私が男なのかどうか試そうとしていたのも、もしかすると朋也のために?」
「いや、あれは単にあいつが馬鹿だっただけ」
「そ、そうなのか」
「そうなんだ。ま、そうは言っても下手に手を出したらこじれるだけだしな……」
ぽりぽりと頬を掻いた。
「しかし朋也が男として暮らしていけなくなるのは嫌だからな……あ、でも勘違いするなよ?私は朋也がどうであれ好きだからな?」
「智代……」
「朋也……」
結局、肯定的様子見、というのが私達のとるスタンスとなった。
ただ、念のため今何がどうなっているのかは確認した方がいいのでは、という朋也の案には賛成だったので、今回のおでかけを使って当事者二人の情報収集を行うことにした。
しかし気のせいだろうか、なぜか朋也にまた担がされた気がする。